忘れじの冠酷道〜遥か地平に伸びる砂利海の旧国道273号線〜旧国道265号線最大難所、五ヶ瀬〜国見峠〜椎葉村

いつから使われだしたか”国道”と言われるのに厳し過ぎる道を”酷道”、険しすぎる”県道”と”険道”と称するようになりました。たしかに県道らしからざる道というのはチラホラ埼玉にもたくさんあります。ただ”酷道”として紹介されることが多い国道は実際のトコロ「まぁまぁ林道とも言えるかな」と言える程度のものだったりします。

この道は我が家が小諸に初摘みそばを食べに行ったりしたときに SUZUKI X-90やTOYOTA Vitz1.5RS号でよく通った道です。なにしろオフロードバイクで散々走った道だったのでフツーに林道気分で走ってました。まったくもって”険道”とはナンセンスで今でも秩父へのショートカット道としてフツーに エクリプスクロスで走っております。

バイク免許を取得してKAWASAKI 125TRに乗るようになった十代は九州内を駆け回り、KAWASAKI KL250にアップデートされた80年代初頭は全国跨ぎで”破棄された道”や”険しい林道”を渡り歩いて、大抵のことではおののくコトもなくなって、クルマで出掛けてもほとんどは勝手知ったる道だったので”酷道”、”険道”と呼べるほどの道がどれくらいを言うのか、今に至るもピンときませんが、そんなジブンにも忘れられない酷道がありました。

地平線まで延々伸びる深い砂利道〜国道273号線

”狭くて片側断崖絶壁”な道はどこにも今でも散在するし、無理して直前”アカン”となる道にぶちあたることもよくあります。それより恐怖を背負って数時間止まることもままならないバイクならではの”酷道”というのがかつてありました。

1980年当時、北海道遠征した折に訪れた層雲峡から然別湖に至る酷道273号線、情報が乏しかった当時は「大雪山系を眺める真っ直ぐな一本道」位な気分でおりましたら全長100km余りがすべて砂利道、それも砂利で轍が出来る程に深い砂利道で、速度を上げようと思っても深い砂利にハンドルを取られそうになり40km/h以上は出せない状況。数kmおきに「熊出没注意」の看板にバックミラーから目が離せないまま、地平線の彼方まで伸びる砂利道を3時間以上走らされました。

もちろん今では快適なハイウェイの国道273号線です

苔むしたヌルヌル緑道だった〜旧国道265号線最大難所 

現在でも九州では国道265号を「最強酷道」に挙げるヒトは多いですが、かつて最大難所であった五ヶ瀬〜椎葉村間の国見峠に至る道は ”国見トンネル”となり、現在は快適ハイウェイに変貌、現在酷道と称される所以は起点小林市〜椎葉村間に点在する区間を言うらしい。

国道265号線 五ヶ瀬〜椎葉村 区間

国見トンネル開通前の旧国道265号 国見峠越え区間
https://goo.gl/maps/Rp6NRLfFKWSVbFBx6

そんな最大難所であった国見峠とはどんな国道であったか、そこはまさにジブンに”酷道”の冠を記憶に刷り込むものでありました。

1970年代、国道は今ほど網の目状に入り組んではいなくて、九州県内で主要国道は数本という具合でした。1977年 KAWASAKI 125TRを駆って走り出した夏休み、熊本・阿蘇方面から更に南下して(当時言われた)秘境 椎葉村までを、福岡から単独日帰り遠征してみようと企んだときも、九州・熊本の中央部を南北に貫く道は国道265号線しかありませんでした。(少なくとも当時の高校生のが企みに用いた”地図帳”には、満足な道は赤く記された国道265号線しかありませんでした)

夜明け頃に出発して昼前には国道265号の起点・五ヶ瀬に到着。いよいよ椎葉村方面の国見峠を目指して南下開始。10kmも走らず舗装路から林道に変わり、川沿いの道は狭まり1車線分になり車間の轍に雑草が目立ち始める「クルマ走ってるんだよね?」といぶかりながらも更に進んで行くと...更に雑草は道一面ウッソウとなり、日陰の谷間でそれが途切れると今度は路面が一面緑色でヌルヌル滑りまくり。降りてよくよく観てみると苔!「全然人の通った気配がない!」それどころか獣さえ寄り付いてない感じでした。えんやらやっと峠近くまで行くとそこはもう山岳路然としてとてもクルマが通れる道ではありませんでした。

昼過ぎ、国見峠から椎葉村側の景色を眺めながら「...帰ろうか」と泣きが入り、登ってきた道を引き返して行くと何やらトラックの排気音が聞こえて来ました。道幅いっぱい背高雑草のところまで戻ったところでトラックが道幅いっぱいに停車してこっちを呼んでる。
「この先どうなってる?」と声が掛かり近くまで行くと...トラックかと思いきやタンクローリー! この先峠までのあらましを説明すると運転手のおっさんはかなり落胆してしばらく立ち上がれず、バックで数kmは引き返すしかない道をサイドバックミラーで自走バックできるところまでジブンが小一時間誘導していたように記憶しています。

阿蘇の南側で夕方となり、帰りは延々夜のライトを焚いて福岡に帰宅したのは深夜で、こっぴどく親父に説教されるという最悪な一日でありました。まさかタンクローリーが廃道同然の道に突っ込んで来るなど、カーナビやGoogleマップを駆使できる現在では考えられない与太話にしか聞こえないでしょうが、半世紀ほど昔の1970年代ではロードマップにさえ満足な情報は記載されておらず、運送会社もドライバー任せの運行だったと思われ「国道」と記載されていれば、地元の人でもなければこんな「酷道」だとは知るよしもなかったろうと推察されます。

 

ネットの拾い物ですが
確かに大昔も分岐路で立ち止まって眺めた記憶があります。

20年程前、昔を懐かしんで国道265号 国見峠超え旧道をバイクで再訪した際は、既に旧道自体の整備が進んだ後に廃道化したらしく、大昔に高校生を苦しめた異様な過酷さは影を潜めていたものの、厳し目の林道ではありましたね。そして現在でも”酷道伝説”を追体験するバイカーは多いらしいです。