「便利になっていくたび、なにかを失っている気がする」はたぶん当たってます

21世紀には実現するであろう科学という魔法のような産物にあこがれた60年代にも「核戦争世界絶滅」というアンチハピネスな漫画のシナリオも世間に転がっていました。はたして現実の21世紀の日本では、ハイテクテロの脅威を薄らぼんやり感じながらもかなりの便利を実現しています。しかしながらそんな便利に反して世間は恩恵を実感することのない混沌の広がる社会になってるような気がします。

「便利になる」ということは、それまでの幾許かの段取りなり作業なり作法なり労働なり対価なりを省くことができるということです。便利を教授する当人は楽ができたりもっとたくさんやれたり別のコトがやれたりと、合理的にモノゴトをさばけるようになります。しかしながらこの合理性を得るために「幾許かの...」を確実に失ったとも言えます。それが非効率なとか、無駄なとか言われる類いのものであったとしても、全く意味をなしていなかったものはありません。

ソーシャルネットワークも「便利になった」成果ですが、新しい体制には新しい問題が発生するもんです。「情報の共有」を悪く言うヒトはみかけませんがジブンには疑問です。モノの売買に直販体制が成立したことも良いことずくめではありません。はたして前世紀への郷愁なのかそれとも警鐘なのか、自問する今日この頃です。

ただ、AppleやGoogleが先頭を走ってゴリ押ししている「楽しくなる」「便利になる」は、どうしても疫災に思えます。