老人は空洞化した日本を前提にモノを語れない〜リスクを負わない危険な社会

ずっと以前にある会合で「老人達は自分の縁に連なる未来しか語らない」という話をしたら、キーンと聞こえるほど静かに議論が凍りついたことがありました。さほどにおかしな話ではないと承知していたのですが、会合にお集まりの著名人や企業幹部、役人にとっては予定調和をそこなう話だったようです。

ヒトは誰でも例外なく「立場でモノを言う」ものです。個の利益は言うに及ばず企業利益や社会的責任、少々の倫理観、諸々に照らして「これぐらいでどうだい?」というのが大方の「意見」というヤツです。会合と言われるモノは個々の「これぐらいでどうだい?」を確認しながらさらに損得勘定を暈増しして手打ちに持ち込む場、という風情でしょうか。だからベクトルが逆向きな人間の話は会合にそぐわない、空気が読めないというわけです。

予定調和の前提句のように使われることが多くなった日本人の「和を以て尊ぶべし」ですが、これはいわゆる”肝の言葉”であって体裁よく「問うを止めよ」の代わりに使われるものではないはずです。しかしながら言葉の多くが”腑に落ちない”まま使われ、都合の良いように翻弄されるというコトが日常化しています。

「企業が海外移転流出してしまう」から法人減税
「財政破綻するとたいへん」だから一般増税
「電気の安定供給のため」料金値上げ容認
「国際協調・国際ルール準拠」で円高容認

 政治家からは、震災からの「再生」「復興」を表看板に旧来構造の「維持」という意図しか見えてきません。1/100の人件費でモノをつくる国が技術力を備えれば日本の「ものづくり」は成り立たなくなる、は実際にジブンが20年前に中国で感じたまま、あたりまえのことが振興しただけ。日本が空洞化するのは引き返せない前提なんです。「正心誠意」と言えば丸く収まると考えている総理大臣は、やはり「老人達は縁に連なる未来しか語らない」です。

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