歌に寄り添う記憶〜 1972 ミュンヘンへの道

記憶や思い出に寄り添って「懐かしい」と思えるのはやはり当時の音楽であって、洋楽ポップス、昭和流行歌やアニメソングの方だと言えるでしょうね。とりわけ思春期というのは、多かれ少なかれ自分を鼓舞してくれる自分の応援歌としての歌を欲したりするもんです。

そこでこの一枚。当時沸き上がったバレーボールブームの熱狂とメイクドラマの記憶をしっかり自分に残してくれている一枚です。

ミュンヘンへの道 〜アニメドキュメント主題歌:ハニー・ナイツ

1972年当時、ミュンヘン五輪を目指す全日本男子バレーボールチームの軌跡を実写とアニメを交えて描いたテレビ番組の主題歌です。現在のバレーボールのスタンダードはほとんどこの頃に開発されています。いまでは当たり前になっているスポーツ界のメディア戦略ですが、アマチュア規定の厳しい当時としては、画期的なプロモーション活動でした。

松平康隆監督率いるメンバー(1.南将之、2.猫田勝敏、3.中村祐造、4.西本哲雄、5.木村憲治、6.深尾吉英、7.野口泰弘、8.森田淳悟、9.横田忠義、10.大古誠司、11.佐藤哲夫、12.嶋岡健治、13.沼倉慶一、14.野口泰弘)にスポットを当てたドラマや、オリンピックの決戦兵器(視聴者にはそんな風に映ったと思います)として開発された「A,B,C,Dクイック」「時間差攻撃」「一人時間差攻撃」などの紹介をしていました。

ミュンヘン五輪が始まると全日本バレーボールチームは破竹の勢いで予選を突破していきました。(ルーマニア戦:3-0、キューバ戦:3-0、東ドイツ戦:3-0、ブラジル戦:3-0、西ドイツ戦:3-0)

しかし準決勝の体ブルガリア戦では、第1セット、第2セットを連続して落とす番狂わせが起こります。第3セット序盤もブルガリア優勢に進み、「あぁ...これは終わったなぁ」日本中の誰もがそう思ったはずです。そして松平監督は主力の横田や大古に代え、南将之、中村祐造といったベテランを投入、ここから普通は起き得ない逆転劇が始まりました。
けっして派手な活躍ではなかった様にうっすら記憶していますが、かれらがコツコツ加点してゆき、第3セットを逆転! 息を吹き返したチームは続く第4,第5セットを連取し、後に奇跡の逆転劇と伝えられる激戦を制しました。翌日の決勝戦対東ドイツとの再戦は第1セットこそ落とすものの、記憶に残らない位の順当勝ちで金メダルを奪取しました。もし準決勝のブルガリア戦で負けていたら、こんなアニメドラマの記憶も消えていたかもしれませんし、感動のフィナーレを残すにふさわしい歌詞の内容にも違和感を覚えていたかもしれません。

1971-1973 福岡市立筑紫丘中学 男子バレーボール部

最初は新入部員がジブンだけだった男子バレーボール部、同級生の浜をそそのかして?追加入部させるも新入生は2人だけ。2年生になると中村、矢幡が加わり上級生の夏の中体連が終わった頃、アニメ「ミュンヘンへの道」効果か10人そこそこが新入部員に加わった。そして新たにOB達が指導者となって新生男子バレーボール部が1972年9月にスタートした。

(2年生)浜、中村、矢幡、古家、中島、執行、光野
(1年生)新谷、原田、田中

ただそれは苛烈な練習の幕開けでもあったワケで、体育館全面使用するため週イチで午後8時までボールを追っかけるスパルタ、翌年の夏までに脱落、退部する部員が続出、中途で指導者OB達も抜けるというアクシデントに解散の危機もあり存立は紆余曲折、苦難連続のなか3年生夏の中体連に。

1973年夏の中体連

福岡市南区予選  
一回戦 筑紫丘○ - 住吉●
15 - 11
15 - 10
   
二回戦 筑紫丘○ - 三宅●
15 - 7
15 - 5
福岡市地区予選  
一回戦 筑紫丘○ - 春吉●
15 - 7
15 - 11
二回戦 筑紫丘● - 平尾○
3 - 15
4 - 15
三回戦 筑紫丘● - 花畑○
10 - 15
14 - 16
福岡市大会  
一回戦 筑紫丘● -城西○
2 - 15
5 - 16

地区予選からギリ市大会に出場出来たものの一回戦でボロ負けという結果にはなりましたが、それまでのことを振り返るとよくぞここまでたどり着けたと思える状況でした。市大会対戦相手の城西中学校のメンバーに、小学校入学当時に遊んだ双子の兄弟がいた(8年ぶりの再会)ことが驚きだったし、彼らが市大会決勝まで登っていった結果で溜飲が下がる思いでした。