日々の雑感〜日本人はパソコンが使えない〜スマホはパソコンの代わりになりません

経済協力開発機構(OECD)が世界79カ国・地域の15歳約60万人の生徒を対象に2018年に行った学習到達度調査(PISA)によれば、日本は「数学的応用力」6位、「科学的応用力」は5位ながら「読解力」が15位と撃沈している。OECDは「日本の生徒はデジタル時代の複雑な文章を読むのに慣れていない」とコメント。OECDが同時に実施したアンケートでは、1週間の授業で「デジタル機器を使用しない」と答えた日本の生徒は、国語が83%、数学が89%、理科が75.9%と、教育現場での利用率はいずれもOECD加盟国中で最下位で、デジタル活用が進んでいないそうです。

政府はインターネット利用率が80%を超え(総務省30年度白書)スマホがデジタル機器の主流になり日本はさもデジタル先進国かのような報告書を上げていますが、ジブンには実態として中身としては30年前と大して変わらないのではないか?とも思えます。

個人別インターネット利用機器の状況

確かに10代の子供でも「インターネット利用」にパソコンを使っているかもしれませんが... 世間の大人たちは子供の世代では誰もが大なり小なりプログラムを書けるくらいにはなるだろうと大いに楽観していますが、教育現場でパソコンが使われるのは稀だし、プログラムを面白可笑しく教えられるくらいにスキルがある教師は更に稀でしょう。
インターネット利用率が80%を超えスマホを自在に操れても、プログラムを理解している子供は数%に過ぎず、大学でパソコンを使ったデータ処理をこなせる子も10%に満たない、というのが現状のようです。

1980年代後半、バブルの余勢をかって世間でパソコン購入が進んだものの大半のパソコンはホコリを被るか、せいぜいゲーム機、ワープロ機としてたまに電源が入るくらいでした。そして90年代後半、マルチメディア革命で扱えるコンテンツが爆発的に増え、インターネットが普及しはじめやっと一般のヒトにも「使える」パソコンになり現在にいたります。ただ「使える」パソコンにはなったハズですが、誰もが「プログラムを書ける」ようにはなっていません。パソコンの利用価値は飛躍的に上がりましたが、ヒトの頭の中は30年前と大して変わっていません。それこそ「使うだけなら」いつでもどこでもズボラに扱えるスマホの方にヒトが向かうのは当たりまえです。

スマホ利用が進んだ分だけパソコンを扱えないヒトが増えて、新卒者への「パソコン教室」を会社で実施しているという本末転倒さえ現実的にあるのだから、30年前より状況は面倒くさいかもしれません。

スマホが使えるだけでは駄目なのか?

「スマホでググって問題解決!」「SNSで情報発信!」「ネットショッピングで流通革命!」「スマホ決済でキャッシュレスに対応!」それだけでも大したもんだ、とはなりません。パソコンとスマホ、多くの部分で共通の機能を持っていますが、画面の大きさだけでなくアプリの性格や融通性から、スマホは「使うための道具(端末)」パソコンは「創造するための道具」の性格が強くて「創造するための思考」が不可欠になります。

「創造するための思考」とは字面短絡的な芸術性のことではありません。パソコンの本質、デジタルを操るための思考〜形而上的に思考すること※だと言えます。スマホを操るためには最小限のON・OFFの作法、論理思考が必須ですが、パソコンではさらに進んだON・OFFの集合を組み立てて正しい論理を構築する※=プログラムするための思考に慣れる必要があります。それは事の始まりと結果を結びつけるのに無数の要素を介在させてゴールシークさせる作業、実のところ日本人の大半は昔からそんな作業に疎いです。

※平易に「論理的思考」と置き換えればわかり易いとも言えますが、屁理屈やエセ科学、道徳性や非現実的な選択肢まで盛り込んで「論理」らしきモノを展開しても意味は無いです。現実的にゴールシークするための「正しい論理の構築」を目指す作業と言えます。

「読解力が15位と撃沈している」背景の要因は、直感的には「本読まなくなってるからなぁ」なんですが、本の読解力が落ちれば「創造するための思考」も失われて、潜在的にパソコン力も落ちる、という悪循環も生まれるというモン。

スマホは、パソコンの代わりにはならない所以です。