うい・あー・のっと・ざ・わーるど〜「むなしさ」の味わい方
ジリジリ暑い夏の日に梅光園団地と国鉄筑肥線踏切の間に設けられていたコンクリート製の十字の大きな建設碑の上に仰向けになってぼんやり太陽を仰ぐでもなく眼を伏せてふてくされていた幼い日のジブンを忘れたことはない....

北山修さんの「「むなしさ」の味わい方」が発刊されたときそのタイトルを見て思わず4才児の頃のあの時の太陽の眩しさが思い出されました。「Railway As Boundaries〜線路のこっち側と向こう側の境界で一度敗北した子供の立ち上がり方〜」という長い間書きかけのままになっている記事なんですが、まさに人生初めて「むなしさ」に囚われた瞬間であったと言えますね。そのショックの度合は、ふてくされてしまった幼い日から10年程は口数の少ない少年時代を作った程でした。そしてシューベルツの「風」を聞いた少年はその正体が幼い日のそれだということも直感しました。
ジブンが北山さん関連記事に昔から「うい・あー・のっと・ざ・わーるど」を枕詞のように使っているのもそんな「むなしさ」の味わいに関係しておりますが、本意としては五木 寛之 作詞によるフォークル「青年は荒野をめざす」のアウトロに再度転調させたイントロ歌詞を持ってきて、歌詞は同じながら発する意味は「再び逆境が来てももう負けない」とも取れる心意気、そんな逆意を込めて使っております。
虚しさ溢れる北山修の詩の世界
「帰ってきたヨッパライ」「風」「戦争を知らない子供たち」「花嫁」「あの素晴らしい愛をもう一度」...名だたる名曲に散りばめられる歌詞の根底にはいつも「虚しさ」があって、それでも「それを哀しみには落としはしない」という強い繋ぎの言葉が混じり、痩せ我慢のようにも「負けたりしない」 とつぶやき「切なさ」だけを残していく、そんな詩ばっかり作る北山修さんです。
若い加藤和彦のように


