日常生活が続けられる安心社会

飢え死にしない豊かな社会にあって3万人超の自殺者を潜在させる国民は、維新などというパラダイムシフトを実は望んでいない、というのが10年前の小泉・竹中構造改革の顛末です。そして「更なる豊かさ」を貪ろうでもなく、「日常生活が続けられる安心社会」こそがいちばん求められているらしいのだが、それは本当だろうか?

道徳規範を融解させてしまった日本人にとって、格差が進むほどに「日常生活」というイメージを共有することは驚くほど難しく、困窮にあえぐ者にとってはささやかなイメージが寄り添う「日常生活が続けられる安心社会」も、富める者にとっては 「獲得した日常生活の継続を保証してくれる社会」といささか傲慢に読み換えられてしまう現代です。埋まらない程のイメージギャップが生じているのだから、政治家は「日常生活が続けられる安心社会」の具体的な水準など決して語りません。いわんや最低水準さえ明らかにしていません。だから次期参院選の各党マニフェスト発表を待たなくても、羅列があれども「日常生活が続けられる安心社会」など見えてこないマニフェスト」であることは確実です。

そもそも政治が「日常生活が続けられる安心社会」を保証などできるはずがない、のを誰もが知っているのに「未来が見えない」と政府を吊し上げるのは、困窮にあえぐ者も富める者も「政治に搾取される」という不信が根底にあります。そしていちばんは「これまでどうりになっていない現在」への漠然とした不安なのではないかと思えます。

政治は未来に備えて現在を大きく変える姿勢を示す必要がありそうです。「これまでどうりになっていない現在」なのに、「日常生活が続けられる安心社会」に留まろうと不沈艦気取りでこれまでどおりの経済建直しに奔走するようだったら亡国は近いかもしれない。実際、代わり映えしない発想の管政権で思い通りに国民がついてこないとき、イラ管は「それなら、みんなで平等に破綻しましょう!」そんな厄介なことを言い出しそうで怖いです。