平成の維新は失敗していた
以前はまだ間に合うと思えたいろんな事が、実はもうどうしようもない状況なんだという前提で考えた方が、次に行うべき対応のアイデアが意外とすんなり浮かんでくる事もあります。昨年末には「平成の坂本龍馬はいつ登場するのか」という呑気な話題がありましたが、幕末の行く末から明治時代に掛けて起こったことというのは、改革とか、革命とかの字面で語られる場面を想像するほどロマンチックに悠長なことではなかったはずです。誰にとっても一人の例外もなく、1000年以上も大きくは変わらなかった常識的なあらゆることが、まったく違った基準で振り分けられたのですから、その場で起きたであろう不平・不満・混沌の大きさをジブンは想像できません。
「社会的な生き方よりも個人的な生き方を肯定する時代になった」とは言われますが、個人と社会とのあいだに新しい社会契約が交わされたわけでもなく、ずるずる因習的な言葉の記憶を引きずっているため、構造的に息苦しく風通しの悪い社会生活に甘んじなければいけなかったり、格差社会が固定化してしまいそうな流れを生んでいないか? 個人にも、企業にも、公人・公共にも等しく保証される新しい社会契約が生まれない限り混迷は続くのではないか?
10年前小泉政権下で竹中大臣が推し進めた再建策(グローバリズムと金融自由化)は、明治政府が政策策定の柱とした「西洋合理主義の導入」と 「金融制度化」によく重なって見えます。 小泉純一郎の頭の中身はさておき、取り巻きスタッフは「なるほど」と思わせる優秀さであったし、竹中平蔵という人が描いた「公正な競争状況を作り出すのが前提」という考え方は、基本理念として理想的に正しいと思っています。 ただ残念ながら「公正な競争状況」を是としない人達が多過ぎます。既得権にしがみつく輩、弱者を過保護する輩、杞憂な前提リスクを負いたくない輩、 中途で挫折した構造改革は、結果的により深いモラトリアムな状況を作ってしまいましたが、それでも自民:小泉政権は、この8ヶ月の民主党よりずっと「聖域無き戦い」をしていたと思います。
小泉政権下で示された大変革のテーゼは、混乱に耐えられない民衆や連綿と続く予定調和を乱したくない不満分子に潰されました。平成の維新はとっくに失敗していたのではないか? 民主:小沢の掲げた「国民の生活が第一」から、管政権では「最小不幸社会の実現」が旗印に変わったと思っていたら、いつのまに か「強い経済・強い財政・強い社会保障を一体的に実現する」を強調するようになりました。そしてさしたる考えも示さず「消費税10%」。混迷の衆愚政治第2幕が上がりました。