「フツー」を侮ってはいけません〜そのヒトとなりを的確に表す「普通」という言葉使い

「フツーですね」「フツーに考えれば」「フツーじゃない」...
つい口走りたくなる「フツー(普通)」という言葉、"中庸"とか"常識的"とか”ありふれた”とか言う意味をあまり明示しなくていい曖昧もことしての「フツー(普通)」な使い方だと思うのですが、たとえば「フツー(普通→常識)」を「Common sense」と訳してときどき欧米人から眉間にしわ寄せるのと同じ気分でジブンは「フツー」を連発するヒトを観てるときがあります。

正直に言えば、堀江貴文氏のように「フツー」を口癖のように連発するヒト達は、自分の考えを「フツー」に埋没させたいか、「フツー」に偽装したいか、「フツー」に守られたい自信のないヒト、器量の狭いヒトに見えてしまいます。荒っぽく言えば思慮深さに欠ける馬鹿にも見えます。

「フツー」の源は、個人の履歴や生活習慣、経験、思想信条を背景に形成された”思い込み”に過ぎません。画一性の高い教育や生活習慣、社会構成があった時代には共通の背景を見てきた同士に「フツー(普通→常識)」が成立しましたが、格差社会と言われ時代の流行が失われるほど分散多ベクトル化し混沌を呈するに似る自由を強いられる今日にあっては「フツー(普通)」は無いが如きに思われる、とつい似非学者言葉になってしまうのですよ。

ですから「フツー」を口癖のように連発するヒト達というのは、いちいち「フツー」を連発しなければならない自分の背景を念押ししているようなものです。「フツー」を連発すること自体が主張であって、自分の考えを「フツー」に埋没させたいか、「フツー」に偽装したいか、「フツー」に守られたいという心理とは裏腹、無作法な思慮深さに欠ける馬鹿に見える、に繋がります。

口癖は大概、裏腹の意味を持っているモノです

「普通」という傲慢というブログ記事を書いた10年前より少しは精進できたのだろうか、とジブンにも疑問は湧きますが、もちろんジブンの吐いた言葉に常に言い訳を用意しておくというジブンの癖が書かせる文章で成り立っているこのブログ、小心者であることは隠せません。