裁判員制度のこと:事実をつむぐ物語への採点 〜 真実とはかように鬱陶しい

昨年末、知人が裁判員候補者に選ばれたと聞いた。

そんなコトを第三者に話していいのだろうか?そんな直近の疑問もありましたが、本人はなんだか浮かれていたので、ちょっと意地悪くあることないこと忠告するとかなり凹んだ気分になっていたようです。

それから半年以上経ちましたが、実際には裁判員選出の呼び出しが無いので、多分素行に問題があることが判明したからだよ、と挨拶代わりに話しています。

 

殺人を犯しても死刑というわけではありません。殺人という事実があったとしても無実になることもあります。その中間に情状酌量とか、程度というものを設けて罰を決めようというのが裁判という仕組みらしい。よくテレビドラマの決め台詞に使われる「真実」というヤツを明らかにする場が裁判だと思われている(実際の玄人さん達はそんなことを考えてはいないらしいけど、それはまた別のお話)

はたして素人が裁判員として参加するというのは「真実」を見極める一員として借り出されるのだろうか。そもそもそこで語られる真実と言うシロモノは、幾つかの明らかな事実とそれをつなぐ空白部分や背景をおもしろおかしいはずもないサイドストーリーで繋げてみせる物語のことですから、裁判員は検察側と弁護側で作られる異なる物語の出来にどれだけの採点がつけられるかという才能が要求されます。

種明かしが終わったドラマの最後のエンディングになって「どういうことだったの?」といつも訪ねてくるウチのつれあいがもし裁判員に選ばれたら、廻りの関係者はさぞかし困ることになるだろうなぁ、と思うのは極端過ぎますが、司法制度が一般人を参加させた意図は何を読んでも意味不明です。

ー 裁判員の立ち位置は、痴話喧嘩の仲裁に入るおせっかいなおばさんのそれとは違うのか ー

見え隠れする僅かな事実に、豊かな想像力を膨らませて他人の痴話喧嘩に割り込もうとするおせっかいなおばさん達を、ジブンは今ではうっとうしいなと思うことはあっても嫌いではありません。ただ痴話喧嘩というのは大概、当人達が勝手にジブンの想いを込めたもののぶつけ合いか、すれ違いなので、第三者のおばさん達には推し量れない「2つの真実」があったりします。だから痴話喧嘩は「2つの真実」を当人達が共有しない限り和解することはありません。もっとも、おせっかいなおばさん達は「2つの真実」を値踏みして、損害賠償の査定員さながら当人達の責任分担を言って聞かせるトコロにやり甲斐を感じたりします。

裁判員がおせっかいなおばさんのそれと決定的に違うのは合議制を強いられるコト。原則として「1つの真実」を「選択しなくてはいけない」こと。そしてその物語に沿って細部を採点することを強いられるコト。もちろん「別の真実」をゴリ押しすることも可能なのかもしれないですが、そんなタフなおばさんは、必ず鬱陶しいだろうなぁ...