大東亜戦争 終戦記念日〜永劫なる平和を祈るだけで済ませてはいけない〜

今年は8月12日が”終戦記念日”の振替休日です。小学生の頃、ジブンの家では”第二次世界大戦=大東亜戦争”と教えられて育ちましたが、小学校の先生は8月15日を「太平洋戦争の終戦記念日」と言う。子どもの頃は 何で呼び名が違うのか? 日本が負けた戦争をなぜ祝うのか? と疑問に思いながら育ち、そのうち休日であればいいか...と一旦流されますが、興味深い話がてんこ盛りなことが知れると20代の頃はけっこういろいろ掘り詰めたモンです。

防衛研究所紀要第13巻第3号(2011年3月)
日本における戦争呼称に関する問題の一考察

 

元々日本が「大東亜戦争」と呼んでいたものを「太平洋戦争」となぜGHQが呼称改変させたのか、単純に「the Pacific War」という米国の公文書区別名称に合わせて変更させただけかもしれないし、東亜=東アジアの戦争=大東亜共栄圏を創る戦争=白人を駆逐する戦争 という政治的イデオロギッシュな名称を後世に残したくなかったという米国の思惑もあったかもしれないです。昭和天皇の玉音放送があった日を”終戦記念日”としたのには諸説ありますが、国体の頂たる天皇が敗戦を受託した日をもってその御心を記念する日と解するのがジブンには腑に落ちます。

 

【終戦の詔書(現代語訳)】

私は、世界の情勢とわが国の現状とを十分に考え合わせ、非常の手立てをもってこの事態を収拾しようと思い、私の忠義で善良な国民に告げる。

私は政府に対し、アメリカ、イギリス、中国、ソ連の4カ国に、四国共同宣言(ポツダム宣言)を受諾することを通告させた。

そもそもわが国民が健やかに、安らかに生活できるよう心がけ、世界の国々とともに栄えその喜びを共有することは、歴代天皇が手本として残してきた教えで、私も常に念じてきたところでもある。したがって、さきに、アメリカとイギリスの二国に宣戦布告した理由もまた実に、わが国の自存とアジアの安定を心から願ったためであって、他国の主権を押し除けたり、領土を侵したりするようなことは、もちろん私の意志とは異なる。しかしながら、この戦争が始まってすでに4年がたった。陸海軍の将兵は勇戦奮闘し、多くの役人たちも職務に励み、一億国民も各職域に奉公してきた。それぞれが最善を尽くしてきたが、戦局は必ずしも好転せず、世界の情勢もまた我々に不利である。そればかりでなく、敵は新たに残虐な爆弾(原子爆弾)を使用して、多くの罪なき人々を殺傷し、惨害がどこまで広がるかはかり知れない。なおも戦争を続けるなら、ついには我が民族の滅亡を招くだけでなく、ひいては人類の文明をも打ち壊すことになるであろう。そのような事態になれば、私はどうして我が子のような国民を保護し、歴代天皇のみたまにお詫びできようか。これこそ、私が政府に対し、ポツダム宣言に応じるようにさせた理由である。

私は、わが国とともに終始アジアの解放に協力した友好諸国に対し、遺憾の意を表明しないわけにはいかない。わが国民のうちで戦死し、職場で殉職し、不幸な運命で命を落とした人々やその遺族に思いをはせると、まことに悲しみに耐えない。また、戦争で傷を負い、戦禍に遭い、家業を失った人々の厚生を考えると深く心が痛む。思うに、これからわが国が受ける苦難は尋常ではないだろう。わが国民の心中も私はよくわかっている。しかし、時世の移り変わりはやむを得ないところで、耐えがたいことを耐えて、忍び難いことも忍んで、未来の平和を実現するために道を拓いていきたい。

私は今ここに、国体(天皇を中心とする秩序)を護持し得て、忠良な国民の真心を信じ、常に国民とともにある。もし激情にかられて、みだりに問題を起こしたり、同胞が互いに相手をけなし、おとしいれたりして時局を混乱させ、そのために人間の行うべき大道を誤って世界から信義を失うようなことがあれば、それは私が最も戒めたいことだ。全国民が家族のように仲良く分かち合い、長く子孫に受け継ぎ、わが国が不滅であることを固く信じ、国の再建と繁栄への任務は重く、その道のりは遠いことを心に刻み、持てる力の全てを未来の建設のために注ごう。道義心を大切にし、志を強固にして、わが国の美点を発揮して、世界の進歩に遅れないよう努力しなければならない。わが国民よ、私の意のあるところを十分汲み取って身につけてほしい。

-ハフポスト日本版サイトより転載-

 

歴史に清濁吹き出すのはあたりまえとも言えるし、ベクトル操作したい人の浅知恵故とも言えるのですが....それにしても昔からNHKは左翼的というか、今風にポリコレに見えるのがなんともです。いずれにしても平和の国のジブンには政治的スローガンを強制されるのは勘弁して欲しいと思うわけですが、”大東亜共栄圏”を”LGBTQ”と読み替えてもさして変わらないヘンテコなことは起きています。まさに「事件は現場で起きている」で高い志もむやみに振り回せば暴力に等しいワケで、過ぎた歴史を一言で総括しようとする田原総一朗風に考えるのは愚の骨頂と言えます。

 

本日の「虎ノ門ニュース」でちょうどこの表題に関連する話題が取り上げられていたので、昔の下書きメモに加筆して記事にしてみました。

2024.8.15追記