「普通」という傲慢

「普通」という考え方が蝕む病は多い。「普通ではない」は良くも悪くも母集団の中位に無いということですが、そもそも母集団を形成する中位部分をどれくらいに見積もるのかは暗黙に、大雑把に、いいかげんなもんです。中位(スタンダード)から派生した「普通」という言葉の概念はさらに肥大しましたが、おおよそ人が「普通」と考えたり、言葉に出したりするのは(自分を害しないならば)取るに足りないありふれたモノを扱うときか(自分に害が及ぶならば)母集団の中位に紛れさせたい意識が働いたときのいずれかです。

「普通」が文化によって違うのは、母集団自体の取り上げられ方が違ったり、母集団形成の過程にある背景が異なるからです。また時代によって「普通」も変わるものですが(自分に害が及ぶ可能性のある)保守的な「普通」はなかなか変えられないもんです。余談ですが、ジブンは「みんなで力を合わせて」が嫌いです。思うに「みんなで力を合わせて」が必ずしも合理的ではない...という理由以外にも、情緒的、予定調和的に、つまりは意図不明の「普通」の強要を臭わせるからなんだろうと思い当たります。それでも「みんなで力を合わせる」必然までもは否定しません。場合によってはそれが合理的であったり、必須であることさえあります。 

価値観の多様化が進み、野放図にそれを許容することを迫る時代にあっては、ひとつの基準としての「普通」その存在理由自体が危ういと思えますが、大本営発表が「普通」と言われるよりましだと考える人もいれば、もはや”世間相場”ともかけ離れている「普通」であってさえ、逃げ込む先の隠れ蓑として手放したくない大勢もいます。かように「普通」の問題は、意図を明確にしない都合のいい「普通」が会話や考え方の中でたびたび登場することです。さらに言えばこれら「普通」の糜爛(びらん)は「普通」がかつて包含していた規範となる常識や、公共といった経験伝承の社会性をも欠落させています。