FOX 「24」〜アメリカの独善と疑心暗鬼の象徴

いやらしいほど期待をはぐらかす展開は、ホントおもしろいですねぇ〜(録画しておいて1/3位は早送りなんですが 笑) 表題ほど振りかぶったこと考えてるわけではありませんが、アメリカ人の「正義」と「友情」と「アメリカンドリーム」というのはかように「独善」と「疑心暗鬼」と「野望」に裏打ちされるものだと痛感いたします!

FOXムービーチャネルで現在放映中の「24 -トゥエンティフォ-」シリーズ5

「アメリカ人の」ではなくて「人の」と言い換えた方が無用の非難にさらされないかもしれませんが、顕著な嗜好(=思考)が見て取れるのはやはりアメリカ社会ならではでしょう。普通、アメリカ人の「正義」というのは、お人好しの倫理観に根深い日本人が持ってるようなもんじゃなくて「社会ルール」ということですよね。

ドラマの中では何度も「友情」が「正義」をなぎ倒して進行していきます。
「正義=ルール」も絶対・普遍的なものではなくて「友情=独善」や「アメリカンドリーム=野望」の前に解釈を変えられていくもんなんだと繰り返し訴えるんです! 

たった一人の友人を救うために数百人の海兵隊員がバタバタ死んでいく様を日本人は冷静に「信じられなぁ〜い」とか「不合理だよね?」とか評論したりしますが、これがアメリカではうけるんです。時に彼らにとって「友情=独善」が「正義=ルール」を書き換えるんだと信じたいんでしょうねぇ。美しいんですねぇ〜自分を劇場のそででバタバタ死んでいく海兵隊員に置き換えて見る観客はいません。自分がヒーローやヒロインになった非現実感をリアルに共有したいんです。 

 ※赤字を無視して読んでください

だからこの手のドラマを見るにつけ、アメリカ(異質・多民族=疑心暗鬼)を束ねるには、(ゆるくもきつくもいかようにもなる)「正義」の厳格な執行(幻覚な正義の失効?)と、信頼に足る(理屈じゃないんだ!なにがなんでもやったるぞ!という)「愛と友情」を遵守し、我こそが!オラがための「自由」を保証する組紐が必要なんだね、と痛切に思うわけです。

日本でも似たような事やろうとしました。「ひとつの命は地球より重い」なんて事を言ってとりまとめにゴソゴソ動いたりしたんですが、硬直したまま、ばか正直に言葉どおり実行しようとして、いろいろ都合の悪いこともあって、あからさまに「それはそれ」なんて言い出すから、不具合だらけ、嘘だらけになってしまいます。 

日本の土地に倫理が根付いていた時代には「常識」や「正義」がブレもせず正論として通用していましたが、世界を相手にしだすとそれがガラガラ崩れていったんですね。直輸入した欧米型自由資本主義を生半可に運用してきたツケをいま払わせられています。「正義」も「自由」も「常識」その他多くのことも大雑把な解釈を過ぎたツケですね。思考の基盤、倫理の基盤が違うから、小さく思える違いが大きな誤解を生み、大雑把な掴みが大きな勘違いを生みます。

グローバルスタンダード....もう昔には戻れません。かと言って竹中流欧米型世界観を共有するなんて事は危なすぎますね(世界恐慌目前だし...)、中国的詐欺まがい思考(自分の勝手な物言いです)もアメリカのそれによく似ていて下品に思えるし、日本にはもっと肝の据わった賢い人達がいたはずです。温故知新的に学べるコトはないものでしょうか。
(旧世代が嘆いてなんとかできるようなモンでもないですが、それでも文句タレルことが必要なんだとは解ってきましたよぉ)

こんな事はいま始まったことではなくて、古〜い日本が変わってきたよなぁとホントに思えたのは80年代バブルの頃(グローバルスタンダード発進時期に符合します)でした。若い綻びはそんな後出しジャンケンのようなイチャモンには無縁で、こんなアニメーションも支持するようになってました。今思えば崩壊と再構築が一緒に起こってた混乱の時代です。

ちょうど欧米スタイル直輸入の「価値観」という言葉がワイルドカードのように乱舞していましたねぇ。都合が悪くなると「価値観の相違ね!」なんて音便に話を中断して「痛み分け」を告げるのによく使われてましたぁ...(中途半端な日本人が誤って使うには持ってこいの意味不明な流行語です。いまでも現役だったりしますが、グローバルスタンダードの勘違いの典型だと思うなぁ)

これ以降になるのかなぁ、アニメーションの押井守監督作品はどこから持ってきたのか異国臭ベースの展開の中で「それでも踏ん張る日本人」を感じさせるキャラクタが登場したり、ニヒリックには終わらない結末がポッ...と希望や不安や「終わらない」を残してくれたりするクールがあります。

日本人は、日本仕立てのドラマや主人公(=役者)の中に、世相や自分を投影するのが苦手なような気がします。ドラマのおもしろさに没入できてもそれで終わってしまいます。やはり気持ちに非現実感を潜ませてリアルに投影できないのは「嘘だらけ」が身に染みてるからか、「嘘だらけ」を前提に考えたくない倫理が残っているからなのか、かえってアニメーションの「何でもありの世界感(=観)」の方が受取易いというか、物事のホントだけをあからさまにしてくれるような気がしています。

いやぁこんなたいそうなコト考えてるワケないでしょう 笑)