日々の雑感〜コミュニケーションを大切に考える その2〜宗教に向かわない貧困

あまり人気のない(笑)「コミュニケーションを大切に考える 〜封殺に向かう社会」の続編です。

日本は「仏教の国」だと小さな頃に教わりました。熱心な仏教徒がどれほどいたか知れない当時でさえ、おウチに神社のお札が貼ってあるだけで「そうなんだぁ」と勘違いであったとしても納得できたもんです。

日本は「無宗教の国だ」とリベラルな人がきどって発言するようになった頃は「そうかもしれないねぇ」とうなずくほどに、かろうじて残っていた慣行儀礼さえ世の中から薄れつつありました。

日本は「新興宗教で溢れている」と警告を発する人が出る頃、「ふぅ〜ん」と自分にとって宗教は「腑に落ちない代物」になっていましたが、合理的にしろ、詐欺的にでもいいから、なんとか理解したいとは思っていました。

そしてオウム事件が起こり、日本は「宗教は危険だ!」とマスコミが騒ぎだす頃、「混迷の時代なのね...危ないなぁ」この頃になると宗教と同じ程度に先導するマスコミ報道の右往左往にも「危ない」を感じていました。

そして混濁の自分ながら、天に頭を垂れるを知るというか、宗教に短絡な物言いは意味がない...とりあえずとは承知のうえですが、腑に落ちたのもこの頃です。

以来、日本から宗教は見えなくなりました。

古来から宗教は「心の平安と道徳的指針を示す」を担い、存在自体がコミュニケーションを担うと言われる存在でした。それが胡散霧消することによって生ずる問題をずっと以前から危惧していた人、楽観的に受け流す人、あえて無視を決め込む人。
....一時期社会は様々に自由でおおらかで無責任でいられました。

先進国中トップを独走する自殺者割合
・上昇一途の児童虐待
・過去最多の小中高校生による暴力行為

こんな統計データと宗教衰退の状況を関係づけて、宗教は大事なんだと言う気はまったくありません。「宗教は危険」「宗教は貧困を救ってくれない」と言われ続けた日本で、日本人が宗教に回帰していくようなことはないと思っています。
現にいまや行政も隣人も縁者も生活に窮したときの頼りにならない時代にさえ、昔のように宗教団体の活動が活発化してるとは聞こえてきません。

かつての貧困ターゲットで地盤を作った創価学会のような組織化も難しい状況です。共同目的の達成を目指す団体「市民連合・非営利団体・ソーシャルネットワーク」などが引き受けられる役割というのは限られていますし、いつ弊害が発生するかわかりません。

宗教が担っていたであろう、もしくは後ろ盾になってくれていたであろうモラルやコミュニケーションがいま急速に瓦解しているのだと思います。

いまのところ旨い代替案は見つかっていません。
追い詰められた(心情的、金銭的な)貧困が向かう先は暗いです。