新聞少年だった時代〜小学生にとっての過酷な労働〜ジブンには必要だった

昔々ウチの親父は、福岡市博多区にあった”渕上デパート”の紳士服売り場の仕立て部門で、紳士服のフルオーダーを職人3人背負って商売しておりましたが、ジブンが5歳のときに渕上デパートが全焼、一夜にして路頭に迷う出来事があり照国町〜長尾を経て神田町(現在は野間に合併)に流れ着き再起するもなかなか商売が軌道に戻る気配もなく、我が家は日々困窮しておりました。

そんな背景もあり当時は”おこづかい”が月々親から支給される習慣は我が家にはありません。しかしながらいろいろ考えつくモンで、当時は飲料メーカーがガラス瓶を再生利用しており、酒屋さんで一升瓶とかコーラの瓶を5円〜10円で買い取ってくれるのに気づき、少年は「ビン拾い」に遠方まで奔走して”おこづかい”を捻出しておりました。

そんな我が家でしたから10歳のジブンの将来の夢は「食いっぱぐれの無い公務員」と現実的でありました。

歩いて遠方まで出掛ける癖は昔からで、出掛ける度におもしろいモノにぶち当たるのを覚えるとさらに加速し、10歳にもなるとさらに遠くへと”自転車”なるモノが欲しくなります。しかしながらココでも我が家の経済事情が高い障壁に。いろいろ考えた挙げ句、少年が出した結論が”新聞配達”で購入資金を作ろうでした。最初は歩いて夕刊30部くらいの配達から始まりました〜給金月額:980円也

京都:丸山公園にある「働く少年の像」

慣れてくると夕刊80部くらいは走って配達できるようになりますが、如何せん走って配達するには部数の限界もあります。「月賦で自転車買えんかの?」新聞店の向かいにあった自転車屋の店主に相談、新聞店店主が保証人(当時小学校PTA会長だった!)になり、当時3万円は下らないスポーツ自転車購入と相成りました。徐々に配達部数と地域を拡大、一年後には朝刊150部、夕刊100部を毎日配達するまでになり、朝刊配達ルートには同級生の重松さん宅、夕刊配達ルートには 堤くん、野村くん、岡野さん宅があり顔を合わせることはほとんどないながら、毎日ご挨拶する日々でありました。

東京都港区:有栖川宮記念公園にある「新聞少年の像」

そして給金も月額:12,000円也。当時の高卒公務員の初任給が23,000円程の時代ですから、人知れず高給取りな小学生だったとも言えます。我が家の借家家賃が払える程の額でしたから、ジブンの「給食費」や「文房具」「修学旅行費」に至るまで自給自足、残りが自由裁量で使える”こずかい”と貯金という具合の小学生でした。

後に記録を遡ると1968年当時、既に15歳以下の勤労新聞少年というのは規制の対象であったらしい。「「新聞少年」という昭和の記憶」ただ実際には全国一律に規制が徹底されることはなく、都市部であっても地方での世間的な認知はかなりあいまいで緩いものだった。新聞販売店にとっても配達員確保は既に難しくなっていたので、過酷な労働を美化して喧伝しなければたちいかないという”大人の事情”が優先されていた時代でもありました

現在は「子供の就学の権利を守る・児童労働撲滅キャンペーン」な時代、そんな経験をする小学生はいなくなりましたが、果たして紋切り型にそれで良いのか個人的には疑問だし、各地に「新聞少年の像」が残って勤労精神を讃え続ける昔ながらの世論も現存するというアンビバレンツ。ただ、ジブン事で言えば頑強な体とメンタルは身についたものの当時の通知表を眺めるにつけ確かに一理はあるねと苦笑いになります。

果たしてこんな新聞少年はというと…
進学した職業訓練大学校卒業にあたって「国家公務員上級乙種付帯の刑務官推薦」を蹴り飛ばし一般企業のエンジニアに就職することを選択してしまうのだから人生は筋書きどうりとはいきません。このことは実家に相談もしなかったのでつい先日、妹に話したところかなり呆れられていました。(刑務所勤務なんて面白そうもないじゃないですか)もちろんジブンの代わりに順送りに当たって任官希望した同期が居たわけで、それはその人の生きる意味とか価値感とかで決めた人生、ジブンがとやかく言えません。