「男らしく、女らしく」〜ジェンダー・フリーに賛成出来てもジェンダー・レスには共感できない凡庸なジブン

「男らしく、女らしく」で育った世代にとってジェンダー・フリー/ジェンダー・レスといった性差撤廃運動は奇異に感じられるトコロ満載なんですが、ジェンダー・フリーのいうところの「性差によらない平等社会」なんてのは昔からあたりまえだと思っていたし、元来は欺瞞的な引用である「レディー・ファースト」なるものは、緊急避難時の「女子供を優先」と同じく「性差によらない平等社会」の上位に位置するものと考えておりました。

一般的に戦後の(教育的)常識とはそんなモンだったはずですが、戦前戦中世代が多く残っていた社会構造にはそれが履行される状況になかったし、営々と社会構造のなかで旧来の慣習は再教育され温存されてきたとは言えます。現代のジェンダー・フリーはそんな変わりきれない社会構造に適正化改革を促す運動だと理解しておりますが....ひるがえって近年は「レディー・ファースト」と言えば「なんで特別扱いされるの!」と言われ、「女子供を優先」と言えば「子供と一緒にしないで!」と言われ、実際は面倒極まりないです。しかしながらエクスキューズ付きながらも概ねジェンダー・フリーの考え方には賛成票を入れられます。

「男らしく、女らしく」で育った世代にとって理解不能に陥りやすいのがジェンダー・レス。なにしろジェンダー・レスを掲げるヒトは「男らしく、女らしく」を正面から否定する輩が大多数。「男らしく、女らしく」を揶揄され差別されるのを解消すべき...とは言っても課題に挙げられるその大半は「マイノリティーいじめ」であって、ジェンダー・レス(性差無き平等)が広義のマイノリティー救済を意味するわけでもなく、なにやら「男らしく、女らしく」を上から潰してフラットで都合のいい性差無き自由な生き方を肯定してもらいたいがためだけに「ガタガタ言うな」と大上段で言われてるようにしか聞こえません。

 虹とスニーカーの頃 / TULIP(1979)

JANE MORE /オンワード樫山CM(1982)

「男らしく、女らしく」を頑張らないでいい社会は、肩の荷が降りたストレスフリーで楽な生き方が出来るのかものかもしれない...とは考えるのですが、良かれ悪しかれな面白さも失われたフラット過ぎる関係性とはなんとも味気ない社会を想像してしまう凡庸なジブンです。

そんな反面「会社組織の中の人間関係に限って言えば、ホントその方が面倒なくていいんだよなぁ...」と共感めいたものも昔の記憶にありますが、それはたぶん面倒くさがり屋の都合の悪い教訓から来た言い訳ともつかないボヤキに違いありません。

イチバン面倒くさい問題とも言えますが、ハラスメント以前に被害妄想な事案もあったりします。

時間つぶしにファミレスに入るとユニセックスな若いペアの会話が耳に入って来て「よくこんなんで会話が成立してるな...」と感心する。経験に照らして理解不能、面白さを共有するなど無理筋で、解ったフリするのも馬鹿らしい...要は若いペアが考えてるコトがわからないと実感する。大昔に説教垂れたじいさん達の心境とはこんなモンだったのかもしれない。