なにも決められない日本人〜"恐れ多くも..."というDNA的シンパシー

昔から日本人は目前の問題に立ち向かうとき”一応の解決”を和することはあっても、核心事は棚上げのまま”水に流す”を繰り返しては、多くの場合問題を決するという態度をとらないヒト達であるような気がします。

これらの”源泉は天皇制にある”というのは、あながち違っていないかもしれない...
大事な決定ゴトにあたって”ジブンごときが決めてしまっていいものか”と頭をかすめるとき、その冠に物言わず”恐れ多くも...”が乗っかっているような気がするのである。

 
 

 

国の死に方 (新潮新書)国の死に方 (新潮新書)
著者:片山 杜秀
販売元:新潮社
(2012-12-15)
★★★☆☆

 

良き日本人は”和すること”を優先するあまりに”言葉を飲む”習慣というものを身につけて育ちます。中途半端にアメリカンなフツーの日本人には、そんな古きDNAが仇なすコトの方が多い世の中...なのか、因習の呪縛を解く好機なのかははっきりしませんが、この機に至って引き返すコトも難しい世界故に、これからのヒトははっきりと生き方を言葉に出来るコトが求められます。

”飲んだ言葉”というのは人目に憚られるタブーになり、知ってか知らずか大いなる誤解の元、問題棚上げの温床になる、というのが日本人のシンパシーなのであります。