夜空の星 〜幻のトリプル・ミリオン〜エレキギターとサーフィンと田沼さん
エレキの若大将は1965年、ジブンが小学校1年生の冬に東宝ゴジラシリーズ「怪獣大戦争」と併映され、我が家では当時の福岡市六本松交差点にあった映画館に出掛け、年末満員御礼の中これまた当時らしくタバコの煙がゆらぐ館内で眺めていたのをぼんやり覚えております。「怪獣大戦争」は記憶に残らず、エレキの若大将・加山雄三・夜空の星が鮮烈に記憶されるコトになったのは、当時我が家に居候していた父方兄弟の末っ子の叔父がエレキギターでヴェンチャーズのスタンダード・ナンバーを鳴らしまくってたのと関係するのやも...
そして若大将:田沼雄一はジブンの人生の節目でいろいろ登場してくれました。
若大将シリーズ第6作『エレキの若大将』≪映画オリジナル・ヴァージョン≫
1966 The Ventures - Yozora no hoshi
1965年 加山雄三・寺内タケシ 夜空の星
加山雄三 氏のペンネーム団耕作が、團伊玖磨 氏と山田耕作 氏に由来することや「夜空の星」は中学2年生の頃にピアノで初めて作曲した KOSAKU Number 001 楽曲であることは加山ファンならば誰でもご存知でしょう。
幻のトリプル・ミリオン、幻の日本レコード大賞
カップリング主題歌「君といつまでも」が300万枚突破のトリプル・ミリオンを記録し※大方の予想は、1966年のレコード大賞確実と言われながら「特別賞」という意味不明の受賞に終わる。(第8回日本レコード大賞:橋 幸雄「霧氷」)
年間シングルヒット曲 1966年(昭和41年) ベスト30
当時は小学生のジブンでさえ「なんで?おかしくない?」と思ったものですが、おとなの事情・業界の事情というものを30年後に知ることになりました...
※レコード売上が公表されるようになったのは、『総合芸能市場調査』(1967年5月4日号〜)から、コンフィデンス正式スタートは1968年1月4日付から、現在業界基準に使われるいわゆるオリコン統計には、1968年1月4日以前のレコード各社発表の販売枚数は全く考慮されないか、参考としてしか扱われていません。
ですから当時、東芝レコードが発表した加山雄三の君といつまでも/夜空の星の「300万枚突破のトリプル・ミリオンを記録」という数字は現在は全く扱われていません。
ちなみに「ゴールド・ディスク認定」とかやってる日本レコード協会、設立は1942年と長い歴史があるものの、ゴールド・ディスク認定は「1989年1月21日以降発売の作品に対し、発売日からの累計正味出荷枚数が一定数を超えた場合」となっており、それ以前のお仕事は何してたの?くらいのものです。
加山雄三とサーフィンとPIONEER MOSS
1984年 ジブンはエンジニアとして日立研究所に出向中で日立多賀の岸壁に建つ寮暮らし、岸壁を降り下ったところが絶好のサーフスポットだったこともあり、夏に秋に冬にサーフィン三昧だった頃があります。1995年 ジブンは東京港区赤坂でマルチメディアと称する”なんでも屋”を引き受けて走っていましたら、エンジニア時代の上司・技術部長だった故・田沼さんから神奈川県綾瀬にある弟さんが経営するサーフボード工房に呼び出され、Macでの管理プログラム作成とLAN設置を手伝わされることに...そしてこのサーフボード工房こそ、あの「PIONEER MOSS」なのですよ。
20年以上になるビンテージ、丈夫です
日本のサーフィンは、1964年「ハワイの若大将」ロケで気に入ったロングサーフボードを持ち帰って茅ヶ崎で加山 氏がお披露目したのが最初だとされていますが、ほぼ同時期かそれより早く米軍キャンプ払い下げのボードで、手作りのボードで「田沼」さん達は遊んでいたようです。ちなみに、1995年NHKの『みんなのうた』で放送された楽曲「CHUN CHUN WORLD」のプロモーションを兼ねててCHUN CHUN キャラのスノーボードを「PIONEER MOSS」でライセンス・リリースする話も進めていたのですが...なかなか上手くは行きませんでした。茅ヶ崎の加山さん宅から200mばかり離れたトコロの銀行管理になっていた訳あり(バブル期は1億円位)物件を2000万円で売却譲渡してもいい...なんて話が出たのもこの頃で、もしかしたら茅ヶ崎・加山雄三通りの住人になっていたやもしれません。
「どこまでもふたりで歩いてゆこう 恋人よその手を引いてあげよう 約束しようつなぎあった指は離さないと 泣かないでキミには僕がいるぜ 涙なんかふいて笑ってごらん」
加山さんの楽曲の多くを手がけた故・岩谷時子さん、49歳のときの作詞ですが、大正生まれ・戦時下を生き抜いた女性は、男の子のメンタルに「かく在るべき」と脅迫観念に近い想いを植え付けたようで、成人しても若い頃のジブンはなかなかこの歌詞のような振る舞いに自信が持てなかったというか尻込みしてしまったコトが何度かありました。数多くの岩谷さんの作詞には、その時代のモダンにフィットし古臭さはまったくないのに”玄妙な”味わいがあったりして、岩谷さんの人生背景を知るとなるほどとうなずけるというモンです。
小学生の短文か?と思わせる歌がチャートに並ぶ J-POPという時代、ジブンはじゅうぶん歳をとったと感じます。
ジブンの古い記憶のなかで「エレキギター」と「サーフィン」と「田沼」でつながる加山さん、世代は違うもののジブンと誕生日が2日しか違わないので毎年「ああ、あのヒトもまた歳をとったな」と思い出したりします。ちなみに20年以上続いているこのブログは、もともと技術部長だった田沼さんと再会後、エンジニアな頃に意思疎通もあいまいだったのであらためてかつての仕事、当時の仕事を話すなかで「おもしろいからまとめてみて」という一言から始まりました。