職業訓練大学校 相模原キャンパス時代〜いろいろバンカラ牧歌的でした
1979年当時の相模原キャンパス
2024年現在の跡地利用状況
40年前のことを20年前に書いた「我が母校〜なんだかな〜職業能力開発総合大学校」記事を最近御覧いただいた現在の職業能力開発総合大学校に通う方から問い合わせメールで連絡をいただきました。
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職業能力開発総合大学校のブログ記事拝見させていただきました。
メッセージ本文:
はじめまして、こんにちは。
現在、職業能力開発総合大学校に通っている〇〇と申します。
職業能力開発総合大学校の記事を拝見させていただいたのですが、現在と比較してだいぶ敷地面積が大きく、予算も潤沢であったのだと思いました。基本的に資料が無く、職業大の先生方からしか当時の相模原のお話を聞くことしかできないため、大変貴重なお話や資料をありがとうございます。もし、当時の自動車部に所属されていたら、当時の自動車部のお話を伺ってみたいです。
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1980年初頭にジブンが通っていた職業訓練大学校については「我が母校〜なんだかな〜職業能力開発総合大学校」記事に詳しいですが、いろんな意味で現在の「職業能力開発総合大学校」との比較は難しくて、現在の世間の常識で考えると"不都合な真実" と言われてしまうようなコトも多かったとは言えます。
当時の職業訓練大学校、初年度の授業カリキュラムでは朝の8時半から夕18時半(土曜日は15時半)までほとんど受講プログラムが満杯、卒業までの取得単位のほぼ半分を初年度中に取得しないと2年次に昇級出来ない仕組みになっていて結構な人数が毎年留年したり退校したりしておりました。基本的に3年次前半までに卒業までの最低単位数を、3年次終了までに必須科目単位を習得完了しないと4年次に上がれませんでした。第一ドイツ語、第二ドイツ語のうち第一ドイツ語が必須科目でこれを取り損なって4年次に進級できなかった、なんてヒトがウチの寮部屋の先輩の友人だったりしました。青年心理学なんてのも必須科目に入ってたような...
職業訓練大学校で習得する授業科目
大学校・大学に行ってどんな授業科目があるのか? ...入学前には大雑把な情報しかないワケで入学したらビックリ、みたいな事は少なくないと思います。果たして現在の「職業能力開発総合大学校」ではどうだか解りませんが当時の「職業訓練大学校・化学系塗装科」の授業科目を見てみましょう。
実際に受講した授業はもっと多くて、初年次はとにかく割り当てられた「一般・基礎科目」が膨大でまともに勉強する時間が足りません。そのうち進級するための必須習得科目以外は取捨選別、中途で受講放棄しておりました。2年次以降は皆賢くなって成績表で「可」判定しか期待できない授業科目を受講放棄する学生は多かったですね.。
ただ...NASAで月の石の分析研究されてた変人教授の「物理化学 Ⅲ」は完全ゼミ形式で割当当番学生は予習にかなりの時間を割かれる羽目になって十数人で始まったゼミが最終的にジブンを含めて2人になり更にドツボにはまり「俺抜けていいかな?」と相方に相談するも「駄目だよ!」とか猛反対くらい最後の試験までつきあって科目習得なるも評価「可」、相方は「不可」判定で科目習得できなかった...単純に成績表のこと考えると「可」判定貰うより、受講の足跡残さない「不可」判定の方がやっぱり得策だったじゃないか!とかも想い出ではあります。このときの相方が卒業時のトップ成績ながら神奈川県の労働基準監督署に任官希望という当時のジブンには????な安定職業を選択しました。卒業生の就職進路において、特待生扱いで刑務官、準公務員扱いで雇用促進事業団の職員に任官できる制度を使わない手はない(と言うよりそれが大学校設立の目的)...なのですが、刑務所内の刑務作業指導や職業訓練指導にこれだけの専門知識が必要か? という疑問は若かりし頃のジブン※には凄く大きかったです。
※追記:
実のところ”本当に高度な専門性を要求される職業”というのはそうそう多くはありません。学会レベルを競うことを目指す者は別として大抵のエンジニアや学者の端くれとして世間に貢献するのに”高度な専門性”が活躍することは実のところほとんどありません。問題を抱えて開発停滞中の当時のウチの部署に新卒社員が活き揚々配属されてきて「実験計画法というのがありましてね、こんなのは簡単なんですよ」みたいな事を話をしていたらしいのですが....問題が解決されるでもなく次第に意気消沈しておりました。試行錯誤は必要不可欠ですが最後は直感山勘第六感、個人の持つセンスがあるや無しやで突破できることの方が多かったと記憶しております。反対に某クリーニングメーカーの下請けを刑務所の刑務作業に請け負う知古の刑務官によれば、もともと発がん性の強いドライクリーニングの溶剤を扱うには厳重仔細な注意を払うので”化学系”の知識は必須なんだと聞きました。なるほど専門知識の用途と使いよう、そんなモンは社会に馴染んだ頃にやっと気づくシロモノだったし、馴染んだ頃に気づかずとも物事の見方に結びついてふっと現れるシロモノになっていました。
バンカラ牧歌的、最晩年のモラトリアム世代?
そんな詰め込みが半端ない学校でしたから結構な数の7〜8年生という方がおられたし、必須科目の撮り逃しが判明した時点で「北海道の牧場でバイトして来る」とか言って3ヶ月くらい学校を留守にする先輩がいたり、共同生活(4人部屋)の男子寮ながらバイト先の連中呼んでクリスマス祝ったりと、まるで60年代の若大将シリーズみたいにバンカラで牧歌的キャンパスライフな一面もありました。
たぶん今の職業能力開発総合大学校 小平キャンパスではそんな不合理とも不条理ともつかないことは許されていないんじゃなかろうか....
当時の自動車部(ラリー部)について見聞きした記憶は...
よく夜中に丹沢山系の林道をぶっ飛ばしていたようで2度程「落ちました!手漉きの方は寮玄関まで」なんて館内放送が掛かったことがあります。当時の運輸装置科でHONDAカブの横型エンジンを改造、板金溶接科で車体造ったりして当時燃費競争で流行したエコラン大会にも出場してたみたいです。自動車部だった同級生は卒業制作課題に自前のスバル1000をレストア・全塗装して、後に ”これは卒業制作課題として認められない”旨の物議を呼んだものの無事卒業して雇用促進事業団に行きましたなぁ... 保険の外交員から脱サラして入校してきたのは無限ホンダに入社、ラリーでサハラ砂漠行くのに何本も予防注射打つ羽目になったとか、溶接科で自転車部のサイクル野郎はミヤタ自転車に就職と夢多き奴ほど民間企業に旅立っていた気がします。