続・博多にわか〜嘘話を楽しむのぼせモン〜

10年前に記事にしたお話ですが記事の文末に(続く)と付記しながらそのまま放置していたお話ですが、半世紀以上も昔のジブンの幼児期の体験に根ざしたお話であって、決して「博多にわか」の解説をしたわけでもなく、ましてや今の博多の街の日常に同じような風景が続いているかも定かではありません。

 

実のところこの記事のホントの主題は「博多にわか」ではなくて、ペテン師のはなし「ヒトは窮地に立つと嘘をつき、浮かれると本音が漏れる」にも登場する「嘘話」だったりします。「嘘話」はジブンが幼少期から口癖のように使っていた言葉であり、このブログ記事のなかにも頻繁に登場させていますが、短絡的な「嘘〜偽り」の語彙とはほとんど無縁に使い分けている言葉だったりします、しかしながらその実「嘘話」自体を旨く説明できないことに気づいたのが10年前、記事の文末に(続く)を付記したまま放置されたのはそんな理由からです。

世間は「嘘話」で溢れていると言って差し支えないし「嘘話」を操れないヒトは見えてる世界に翻弄されやすく、さらには人生のの芳醇さを噛み締められません。振りかぶった物言いですが「嘘話」を「それ」に入れ替えて読み替えると腑に落ちる文章が出来上がったりしませんか? 「嘘話」は「それ」をまるごと包んでしまうようなモノ...言葉に換えていくと「嘘話」とはならないシロモノかもしれませんが、それを「嘘話」と代弁させている不可思議さにつきあっているジブンです。

風通しが良くなった旨の言われ方をすることもある現代、デジタルに紋切り型なマニュアル社会は理解されやすさを生んだと称されますが、物事を短絡的にアイコン化した世の中では語られない別の「嘘話」が闊歩している風にも思えます。そんな使い方をしてしまう「嘘話」の説明は、ジブンの心象風景を吐露してしまうのに似ている...とも言えそうでなかなか難しい。